キューバ
ラ・ボギータ・デル・メディオ


じゅんろうが見たキューバ
カリブの真珠、今だ社会主義国であるキューバを訪れる者は必ずカルチャーショックをうけるでろう、今やほかのカリブの島々と同様に熱帯の楽園をイメージできるキューバも数年前までそうではなかった。カストロやチェ・ゲバラの率いる革命軍がバチスタ政権を倒した1959年の革命戦争は記憶に新しい。その革命から35年、ソ連崩壊後は食べるものにも絶する貧しい国になってしまった。その後、アメリカの経済制裁が続きキューバの人々は、日本では考えられないほどの、厳しい生活をしている。しかし、ドル獲得のため観光産業が実り、カナダやヨーロッパからの観光客で活気を取り戻しつつある。
キューバの旅の醍醐味はどんな苦労でも笑い飛ばしてします明るく力強いクバーナ(キューバ人)の笑顔であろう。
ハバナにある革命博物館。(1920〜60年まで大統領官邸として使われていた。)


首都ハバナと酒場

キューバの首都、ハバナは、スペイン・コロニアルの面影を残す、旧市街が魅力である。そこは、19世紀後半の黄金時代に財力をつぎ込んで建てられた、見事な建築物が多く残され、ユネスコから人類の文化遺産として指定されているのもうなずける由緒ある町並みである。また、ここは、ヘミングウェイゆかりの地でもあり、当時とはずいぶんと変ったであろう街並みの中に、今でも彼の文章に出てくるのシーンをかいま見ることができる。
では!!ハバナの下町にあるラ・ボギータ・デル・メディオを訪れよう!!

とても小さな酒場、ラ・ボギータ・デル・メディオの入り口


ラ・ボギータ・デル・メディオ
(ヘミングウェイが愛した酒場)

ヘミングウェイが一杯のカクテルを求め通った酒場ラ・ボギータ・デル・メディオ。彼はこの酒場を代表するキューバのカクテル、モヒートを求め、超大作『老人と海』を海辺の書斎で書きながら、しばしば通ったのである。
酒場、ラ・ボギータ・デル・メディオは、旧市街のランドマーク、カテドラルから1ブロック入った細い裏通りにある。入り口は小さく、とても大きな用心棒風の大きな黒人が立っている。彼いわく柔道が強いと自分で言っている。しかしそれは本当かわからない。入り口を一歩はいるとすぐに、カウンターバ―があり、凄く年代を感じさせる椅子に腰そ下ろすと壁に飾られたヘミングウェイの写真やサイン、アジェンテの『チリは自由なキューバを待っている』のサインや、古いコインなどが目に飛び込んでくる。暗い(写真)酒が天井まで並べられたカウンターの奥は、コレも度肝を抜く年代もののテーブルが並んでいるレストランになっている。レストランにはキューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの赤い段幕を見ながらの食事は、キューバではヘミングウェイ以上に愛された人物である事がうかがえる。そして、壁という壁には、ここを訪れた人のサインで埋め尽くされている。
しかし、チェ・ゲバラの赤い段幕、そして落書きだらけの壁に囲まれてキューバ料理を食べるのも悪くない。僕はお店にあっけをとられ何を食べたのか覚えていない!!!
では、キューバでしか味わう事のできない、カクテル、モヒートについて


幻のカクテル
モヒート
キューバを代表する国民酒といえば貧困の大地から地から強く育ったサトウキビから造られたラム酒、中でも最も人気の高いブランド“ハバナクラブ”の3年を使ったカクテル、キューバの国民にこよなく愛されるモヒートのカクテルの造り方を伝授しよう!!

大衆グラスにレモン、キューバ産の砂糖、そしてイエルバ・ブエナ(HIERVA BUENA)と呼ばれる青い葉をグラスに突っ込むめテーブルに並べられている写真

グラスには、キューバの素朴な材料、レモン、砂糖、そして紫蘇の葉の風味を持つイエルバ・ブエナ。そしてキューバの高級ブランド、ハバナクラブ3年のラム酒を注ぎこん棒でイエルバ・ブエナの葉をエキスが出るように練り潰す。最後に炭酸水を注ぎモヒートの出来あがり。モヒートはキューバの酒場ではどこでも飲めるが。なんといっても、ここラボギータ・デル・メディオのモヒートが世界一であろう!!!

こん棒でイエルナ・ブエナの葉を練り潰すボギータのバーテンダー
  モヒートはキューバでしか飲むことができない
  カクテル・ブックにも載っていない幻のカクテルと断言できる。

ハバナクラブ3年.

ハバナクラブ
キューバンラムを一躍世界に知らしめたブランド。同国キューバで1878年創業、100年以上の歴史をもつブランドである。キューバンラムはライトラムの代表的な産地、アメリカの禁酒法解禁以来、ハバナのラムは対米輸出でおきく伸びた。その後1959年にカストロ政権がラム酒工場を国営化したことにより、それまでキューバで作られていたスーパーブランド、バカルディ(BACARDI)などのラム酒工場が閉鎖され皮肉にも、プエルトリコへと移転。そして輸出銘柄はこのハバナクラブにしぼられることに。現在は、状況の変化により日本でも購入できるが、20世紀後半は、幻のラムとして珍重されていた。ラベルにデザインされている女性の像は“イラルディア”と呼ばれ、ハバナ港の入り口の町に実際立っているブロンド像。永遠の若さを求めて旅立った水平の夫を辛抱強く待ち続ける物語の主人公の女性である。ちなみにハバナクラブの工場はハバナ(HAVANA)の東50km、サンタ・クールス(Santa Curse)にある。僕は、タクシーをチャータして工場見学を申し出たが、見学不可能で今だ社会主義化され国営化された工場は外からの写真撮影も禁止されている。サンタ・クールスまでは国道ブリア・ブランカを通っていくが、途中油田などの発掘作業がいたるところで見かけられる。
まさに、ハバナクラブなしにしてキューバは語れない!!そして幻のラムである


ボギータのお勧め料理

ピカディージョ・ア・ラ・アバネラ
(Picadillo a la Habanera)
ニンニクと挽き肉野菜のみじん切りを炒めオリーブの実を混ぜ、レモンをかけたもの。絶品

ボニアト
(ボニアト)
サツマイイモをフライにしたもの。ほんのり甘くて素朴なキューバ家庭料理


チェ・ゲバラ
ボギータのレストラン、ハバナ空港いたるところで見かけるチェ・ゲバラとは?

エルネスト・チェ・ゲバラは、1928年6月14日、アルゼンチンのロザリオに生まれた。家系はスペインとアイルランド系で、ぜんそく餅のゲバラはロザリオ近くの山中の町で少年時代を過ごした。少年の頃から歴史や社会科学の本を読み、特にチリの共産党主義者の詩人パブロ・ネルーダの作品に影響を受けた。19歳の時ブエノスアイレ大学医学部に入学。1952年、チェ・ゲバラ(チェ’とはアルゼンチンで親しい相手への呼びかけに使われる言葉である)は学業を中断して、友人と共にアメリカ大陸横断の旅にでたり、モーターバイクでチリに行ったり、いかだに乗ってアマゾン川を下ったり、飛行機でフロリダに飛んだりした。やがてゲバラはアルゼンチンに戻って復学し53年、内科医と外科医の資格を取って卒業した。
1953年の終わり頃、ゲバラはアルゼンチンを去り、以後2度と帰ることはなかった。グァテマラに行ったゲバラは、戦争状態にある国を初めて直接知ることになった。ゲバラは、民族主義的なハコボ・アルベンス政権を指示していたが、54年にアルベンス政権がアメリカの支援を受けた反革命軍の武力侵攻によって倒されるとアルゼンチン大使に非難し、やがてメキシコに亡命した。
ゲバラがカストロとであったのは、このメキシコでの事であった。当時、フィデル・カストロはキューバの独裁者バティスタを打倒するため遠征計画を立てていた。ゲバラは医師として遠征に参加することに同意していた。1956年12月2日、遠征隊はキューバ東部に上陸し、ゲリラの中核となってマエストラの山中で活動し、58年12月31日のバティスタ政権壊滅に大きく貢献した。1959年1月、ゲバラはハバナに入城した最初の革命軍司令官の1人となった。カストロ政権下でゲバラはラカバーニャ要塞司令官、国立銀行総裁、工業相などさまざまなポストを歴任したが、ナによりも重要な事は、常にカストロ首相の最も有力な顧問の1人だったことである。60年秋、ゲバラは社会主義圏との通商関係を樹立するために社会主義諸国を訪問し、アメリカの対キューバ政策を非難した。ゲバラはまたキューバの急速な工業化計画を指導していたが、失敗に終わった。彼は生産を増大させるには物質的刺激よりも精神的刺激を優先させることを主張した。ゲバラはラテンアメリカにおける反国的主義ゲリラ戦略の主導者であり、処女作“ゲリラ戦争”(1960)のなかでゲリラ戦の基本を説くなど、この問題について多くの論文を書いている。公務にあたってもゲバラの行動癖はおさまらなかった。彼は旅を続けた。1964年12月、国連総会で演説した後、ヨーロッパ、アフリカ、アジア各国を巡る長いたびに出た。いったんハバナに戻った後、公衆の前から姿を消し、アフリカでゲリラ戦闘を指導したが失敗。キューバに戻った彼はキューバ軍士官のグループを編成して、次の戦場地であるボリビアに向かった。ボリビア陸軍はゲリラ部隊を追跡してゲバラを捕らえた、そして1967年10月8日、処刑され39歳の若さでこの世を去った。


ラ・ボギータ・デル・メディオ
住所
CalleEmpedrade 207,e/Cuba y sun lgnacio,La Havana Vieja