相武台の歴史を振り返る (座間市)

2013-05-18

5月18日(土) 座間駐屯地開設記念
私は、座間市の「相武台」と呼ばれる地名で生まれ育った。
この「相武台」は昭和12年、東京の市ヶ谷にあった陸軍士官学校が、当時の座間村(現・座間市)に移転してきた際、この地を昭和天皇が「相武台」と命名したのがルーツとなっているが、この「相武台」の地で今日、陸上自衛隊座間駐屯地開設記念の式典が行われ参列した。この式典の行われた「相武台」という地名の一部は現在「キャンプ座間」と呼ばれ、太平洋戦争が終了した1945年以降、在日米陸軍が駐留していることは世の中に広く知られているが、陸上自衛隊、東京練馬区にある朝霞駐屯地と密着した分屯地として使用されていたことを知っている国民は少ない。私はこの相武台の地に生まれ、青春時代、陸上自衛官としてこの「キャンプ座間」で過ごしたのだが、このキャンプ座間に「中央即応集団」と呼ばれる防衛省と隣接した日本の国防で重要なポストを担う組織が、東京練馬区の朝霞駐屯地から今年の3月26日に移転をし、正式な式典が今日行われたのである。国際派遣(PKO)、大災害、テロ、隣接する国との間の緊迫した緊急事態、世界各地の国際問題を米軍と協力して即応に対応し指揮をとる、国防の要が相武台へと移転してきたのである。陸軍士官学校から在日米軍基地、第四施設郡による地域交流をはさみながら、今回日本の国防にはなくてはならない組織CRFが移転すると同時に、相武台には大きな歴史の1ページが刻まれたのである。
今日の式典では、米軍施設上空を日本のヘリコプター、輸送機が堂々と飛行していたのもCRFの移転に伴う、組織の力が物語っていた。戦後、相武台(キャンプ座間)上空を日本が敗戦して自衛隊機が飛ぶことは稀であった。歴史の中相武台は変わりつつある
(式典でキャンプ座間上空を飛ぶヘリコプター)