酒造りのルーツ
酒造りのルーツ
時代 西暦 元号 出来事
飛鳥 645 大化元年 大化改新時に宮廷に造酒司(酒造りの部署)が設けられる
播州杜氏が播州を出て大和で酒を造るのいい伝え
奈良 713 和銅6年 平安京、平城京に造酒司を設置。14種の酒を造る。酒米900石余りを使用。
713 和銅6年 播磨国風土記に麹による酒造りの記録。
734 太平6年 尾張の正税帳に赤米使用の酒造りの記述
平安 905 延喜5年 延喜酒造司では、酒造、精米場、特別の麹室が作られる、精米は女性の仕事
905 延喜5年 米と麹を何回かに分け仕込む添えかけ仕込が使われ酒造りが行われる
延喜5年 もろみをしぼり澄酒また水の変わりに酒を用いる貴醸酒の仕込令
延喜5年 大和と河内に計160戸の蔵人がいた(大和に90戸、河内に70戸)
鎌倉   売るための酒造業が始まる
1252 建長4年 幕府、酒を売ることを禁止.鎌倉中の酒壷の数は37、270個あった。
1312 正和年代 建武年代(1335)、酒屋に対する課税の記録あり
室町 1425 応永32年 京都市街の酒蔵家名簿に342軒の酒蔵家の記載あり。
1425 応永32年 京都の酒、天野酒、南都、西宮、越前豊原、加州宮越の酒などの記述あり
1568 永禄11年 奈良の多聞院での三段仕込みによる正月酒造りの記述があり
安土桃山 1576 天正4年 多聞院日記に諸白の記述あり
1586 天正14年 多聞院の酒造りに弥三呼んで酒を造らせる。(弥三・酒造りの名人)
1592 分禄元年 (1598)秀吉朝鮮出兵時、奈良の諸白の良さが地方に広がる
1596 慶長元年 慶長年間、城下町に諸白の出現.備前児島、伏見、唐津、島原、越後、小倉など
1599 慶長4年 多聞院は市販目的の10石造りに踏みきる。
1614 慶長19年 南都の菩提山寺と中川寺の酒は南都諸白として江戸に売られた
江戸 1650 慶安3年 新潟県「加賀の井」関西より元禄にかけ杜氏を招く
1657 明歴3年 杜氏が湖池屋働きに出る。
1678 延宝6年 岩手県村井権兵酒屋(近江出身)が大阪三池より杜氏を招く
1681 天和元年 九州肥前平戸藩酒造家、上方より杜氏麹師を招く。
1681 天和年間 新潟杜氏、関東に酒造り出る(現和年間曽村物佐衛門関東へ)
1704 元禄年間 関西杜氏の技術が越後に伝わる。
1713 正徳3年」 焼酎の製造(寺島良安ー和漢三才図会)が始まる
1721 享保6年 秋田「福小町」伊丹を視察。1755年(宝歴5年)には大阪より杜氏を招く
1782 天明2年 灘、六甲水系の急流を利用して米もみ水車設置の記録あり。
1786 天明年間 新潟杜氏が勤勉、実直が認められ、広く関東に出る。
1792 寛政4年 播州杜氏より技術伝授された周辺、中尾村の当時が紀伊に酒造出稼ぎ
1800 寛政12年 打出村より山城、近江、河内、和泉、武蔵、下総、常陸まで杜氏として出稼ぎ
1807 文化4年 秋田「銀 」、大阪より杜氏を招く。
1812 文化9年 岩手、南部杜氏が仙台領石巻に出る。
1818 文政元年 新潟の酒男、文政、安政年間の出稼ぎ千数百人に達する。
1823 文政6年 秋田の酒蔵家が山形、大山より杜氏を招く
1840 天保11年 灘、宮水の発見(硬水)
1847 弘化4年 広島の三津に、軟水の醸造方法を生んだ三浦仙三郎誕生。
1865 慶応元年 秋田佐竹藩、伊勢国生まれの杜氏、星野友七を招く。
1865 慶応元年 星野杜氏は後に秋田に住んで秋田長野杜氏を育てる。
明治 1884 明治17年 広島の三浦仙三郎、灘の有名な当時を招き、灘式仕込みを試み失敗
1894 明治27年 三浦仙三郎、京都の酒造家大八木氏を招き、軟水の性質を見抜く
1897 明治30年 三浦仙三郎、軟水改良醸造法を発明。
1898 明治31年 広島県清酒品評会始まる。
1901 明治34年 広島県三津杜氏組合設立
1904 明治37年 国の醸造試験場が設立される。
1907 明治40年 全国秋の品評会が始まる。
1907 明治40年 弟一回全国品評会で広島、三浦仙三郎の軟水仕込みの酒「龍勢」が1位となる。
1911 明治44年 全国新酒鑑評会が始まる。
1911 明治44年 岩手県南部醸造研究組合結成
大正 1914 大正3年 岩手県、南部杜氏組合結成
       
       

更新日 00/05/07
名前 junro matsuhashi